懐古園の正門は三の門
小諸を代表する城址「懐古園」を訪れると、まずはそのランドマークである「三の門」(重要文化財)が迎えてくれます。
城郭の正門である大手門から入園するようにはなっていません。大手門は城跡から少し離れた位置にあります。
懐古園の入り口がなぜ三の門なのかと言えば、
かつて城内だった敷地を小諸駅が分断し、大手門と三の門を隔ててしまったからです。
さらにその周辺に民家や店舗が建ち並んで、かつての城内の範囲は狭くなってしまいました。
江戸時代の小諸城古地図も複製が手に入るでしょうから、
それを手に大手門から本丸まで、当時に思いを馳せながら歩いてみるのも楽しいものです。
門の上にあった徴古館
さて、小諸城址の文物を展示する「徴古館(ちょうこかん)」は現在懐古園の入り口脇に建物がありますが、
以前は三の門の楼上にありました。徴古館を見学することはすなわち城門の楼上に登ることだったのです。
当店の先代である牧野直貞が晩年その館長を務め、毎日三の門の2階に詰めていました。
まるで芥川龍之介の「羅生門」を彷彿とさせるような薄暗い楼閣の奥に小部屋があり、
こたつに当たりながら職務をおこなっていた先代の姿を思い出します。
ちなみに直貞の長男である直人(当店代表取締役)は若い頃に、
楼上での宿直業務を代行したこともあるそうです。
文物が盗難にあわないよう、誰かが毎日泊まり込んでいたとのことです。
憂き目に遭った三の門
三の門は江戸時代初期の元和元年(1615年)に創建されましたが、
江戸時代中期の寛保2年(1742年)に水害によって流出してしまいました。
俗に「戌の満水(いぬのまんすい)」と呼ばれる、千曲川と犀川流域で発生した大洪水です。
「穴城」と呼ばれるように城下町より低い場所にある小諸城に向かって大水が押し寄せて来たときに、
慌てた門番が三の門を閉じたため、逆に城門が耐えきれなかったのだそうです。
その後、明和2年(1765年)に再建されました。
再建当時の三の門の屋根は入母屋造りでしたが、明治中頃の修理で寄せ棟造りに改造されて現在に至ります。
門の両袖の塀には矢狭間(やざま)、銃丸(つつまる)銃砲狭間がある戦闘的な城門であり、
門を支える石垣は、ひとつひとつが加工された切込はぎの石積みによって築かれています。
小諸城内の石垣が自然石をそのまま積んだ野面積(のづらづみ)であるのとは対照的ですね。
廃藩置県ののち明治5年に小諸城の入札がおこなわれ、
三の門は北御牧村(現在東御市)の小山氏が引き取りました。
しかし大きすぎて千曲川を渡せなかったため懐古神社に寄贈され、
かつての姿に戻されることとなったのです。
なお、三の門正面に掲げられた「懐古園」の額の金文字は、
16代徳川家達公(最後の15代将軍慶喜のあとを継いだ16代当主)の筆によるものです。
当店では小諸名所である三の門を南部鉄器の飾り皿として鋳込み、販売していました。
在庫と陳列品が少々残っておりますので店頭とオンラインショッピングで取り扱っております。